“音楽のまちづくり”とは |京都府京丹後市「NPO法人音楽のまちづくり」ではクラシックコンサートを開催しています。

ごあいさつ

代表 田中千穂

クラシック音楽というと堅苦しい、難しいといったイメージが付きまといますが、日頃の生活環境のなかで自然と耳馴染みになっているものが多く、実は広く私たちの心を捉えているのです。

そんな心に染み入る良質な音楽を広めたいとの思いから「NPO法人音楽のまちづくり」は、都市部から離れているために芸術鑑賞の機会に恵まれない丹後半島で2006年9月に産声をあげました。

内外の一流のアーティストを招聘した演奏会を開催するだけではなく、生のクラシック音楽の良さを知って頂くために、学校や福祉施設への出張コンサートをしたり、環境団体と野外でのコンサートを開催したりして地域に密着した活動をしてまいりました。

弦楽器製作者
田中博(1920~90)

また、「NPO法人音楽のまちづくり」の設立の発端となりました、丹後出身の弦楽器製作者、田中博(1920~90)の遺しました音楽資料の調査・研究、展示及び音楽資料に関する講習会の開催、制作楽器による演奏を収録しましたCD製作及び販売を通じまして、音楽や楽器製作への理解を深めるための啓発活動も行っております。

今後も教育や福祉、医療、心理、環境等の異分野で音楽事業が活用され、地域に暮らす方々のニーズを満たし、音楽が皆様の心の滋養になりますこと祈念致します。
北近畿地方での私どもの活動が微力ながら、音楽の息づくまちづくりに貢献できましたら幸いに存じます。今後とも宜しくお願い申し上げます。

NPO法人 音楽のまちづくり 代表 田中千穂

  • 主な活動内容・活動方針
  • 教育・福祉関係者様へ

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世界的な弦楽器制作者 田中博について

峰山時代(1920~38、1945~51)

・1920年9月7日
京都府中郡峰山町字上壱番地に父、重太郎、母、ふ美の長男として生まれる。播州出身の父は建設業を営み、主に公共事業を請け負う。(峰山小学校、峰山高等学校、震災記念館、比治山トンネル建設工事、宮津線敷設工事、淀競馬場など)

  • 田中重として知られる

  • 中学時代

  • 高校時代

  • 丸紅新社屋にて(右)
・1938年
京都府立工業高等学校を卒業。軍事色が強まる学生時代を送るがあらゆるスポーツを楽しむ一方で絵画や詩歌を嗜む。3月、丸紅京都支店に入社。
・1939年
10月退社。12月志願して陸軍騎兵部隊に入隊。
・1940年
中国大陸へ出征。やがて負傷して除隊。
・1945年
峰山町の実家で療養。
・1947年
神戸や京都から峰山町に疎開していた当時の三大名工と称された弦楽器製作者、峯沢峯三、泰三両氏から楽器製作の手ほどきを受けてウクレレ、ギターやヴァイオリン製作を始める。

京都時代(1952~55)

独立して京都、桂に自ら工房を建て、制作に打ち込む。以後3年間京都で修行する。この間京大の教授や日本画壇の人々と親交を結ぶ。

・1955年
3月3日、峯沢氏と共に、自作のヴァイオリンを持参し、来日中のダヴィツト・オイストラッフ氏と都ホテルにて面会。氏はタナカの制作したヴァイオリンを試奏して(日本の音楽水準の高さに驚いた。」との感想を述べる。

東京時代(1956~90)

・1956年
日本画壇の菊池契月画伯の子息らの知遇を得て上京。赤坂台町の近衛音楽研究所で研鑽を積む。近衛秀麿氏の日本各地への演奏旅行に同行。氏の結成したABC交響楽団首席奏者のシュタホン・ハーゲン氏がタナカのヴァイオリンで演奏する。同楽団ヴァイオリン奏者カルボーニ氏のもとで更に修行する。

  • 近衛邸で
    シューベルトの雪像と

  • チェリストの
    ツヴァイ・ハレル氏と

  • 楽器会社(白川総業)
    の役員時代
・1958年
独立して青山に工房を構える。国内外のオーケストラ(N響、日フィル、都響、読響、米三大オーケストラ、ベルリンフィルハーモニー、パリ国立管弦楽団等)のメンバーや、ソロ活動をする演奏家の楽器の修理、調整や制作に携わり以来30年過ごす。
・1971年
株式会社タナカを設立。この頃NHK交響楽団顧問となる。

青山の工房にて

・1973年
長年の取引先の会社社長であり、アメリカで唯一、ドイツ・ギルド組合によってマエストロの承認を受けたウィリアム・メーニック氏に招聘されて、フィラデルフィアで開催された弦楽器製作者による国際会議に出席。東洋人として初めて正式なメンバーとなる。
・1975年
フィラデルフィアで開催された国際会議に出席。イタリア人の弦楽器製作者でタナカが初めてその楽器を日本に紹介したペレソン氏が来日。
・1978年
外出先の千葉で発症。以来12年間自宅で療養する。
・1979年
1月イスラエル出身のヴァイオリニスト、ロニー・ロゴフ氏の提唱に賛同したオーケストラのメンバーによる『ヴァイオリン製作者田中博氏の回復を願うチャリティー・コンサート』が新宿厚生年金会館大ホールで行なわれる。新聞各紙に取り上げられ、大盛会を収める。

出演者:ヴァイオリン 田中千香士、川上久雄、植木三郎、小島秀夫、高橋眞、板橋健、公門俊之、金田幸男、ロニー・ロゴフ(特別出演ヴィオラ 大久保淑人、梯孝則 チェロ 徳永健一郎、田沢俊一
コントラバス 小野崎充

プログラム制作 (株)白川総業
協賛 ステーキハウス ケインズ、うどんすき 堂島、青山 割烹・すしつかさ
田中さんと共に歩む 楽器保険専門代理店 TKA CO.,LTD

プログラムの中のメッセージ(田中博さんの快癒を願って)

恩地 勝(京都大学理学部教授)

「・・30年あまりの付き合いとはいえ、年に2,3回しか顔を合わす機会がなかったので、彼が判断してくれるかどうかいささか気がかりであったが、私を見るなり、『ア、わるいのが来たな』といってくれたのでほっと安心した。

彼は、丹後の峯沢に手ほどきを受けた後、京都でも暗中模索時代を経て日本画家の菊池隆志さん、音楽家の近衛さんの援助を得て上京し多くの優れた内外の演奏家とその楽器や弓に接して急速に成長していった。田中さんは口の悪さに反比例して温かい心の持ち主である。

そして何よりも誠実である、虚偽と不正を限りなく憎む誇り高き技術者である。いかがわしい楽器や弓が横行し、法外な値段で売買されている今日、彼の腕と鑑識眼の高さは多くの弦楽器奏者や愛好家たちの拠り所になっているといっても良い。彼の嗜好はヴァイオリンの華やかな音づくりよりもむしろ、地味に溢れ人生の優秀を歌う中低音の楽器づくりにあると思われる。従ってヴィオラやチェロの製作が彼の本領ではあるまいか。・・・」

小林武史(ヴァイオリニスト)

「・・兎に角怖い人で機嫌が悪いときに行くとよく説教されたものだが、おかげでいろいろ楽器について勉強させられ感謝している。日本に正しい歴史を残すとすれば彼は我々楽団にとってなくてはならない人である。音についてはうるさく、奏法についても我々以上に客観的にものが言えたし、弦楽器の調整について確固たる信念を持っていたようである。・・」

前橋汀子(ヴァイオリニスト)

「・・やがて15年になります。田中さんがいてくださることで安心して毎年帰ってくる日本でした。 ためになる毒舌に私は一生懸命耳を傾け、おかげでいろいろ楽器の勉強をさせて頂き感謝しております。私の主治医はいつまでの元気でいて下さらないと困るのです。・・」

黒沼俊夫(京都芸術大学音楽学部教授)

「・・僕とは古い付き合いで戦後復員してから恐らく彼のところにしか行ったことがないので楽器にしても弓の張替えにしても僕の持っているものはよく知っていてくれて、ただ黙って置いて来るだけで用は済んでしまうほどでした。今はその弓の毛替えひとつにも事欠く有様で早く回復してくれないと困るのです。

大分一徹なところがあって他のお客のいる前で良く口喧嘩をしたりしたものですがそういうところが好まれたり、又嫌われたりして大分逃げ出した人もいたようでした。ただお金のことには全く恬淡としていたので家族の方も大変だろうと思います。兎に角早く口げんかの一つも出来るようになって欲しいと願っております。・・」

※他に岩渕龍太郎(京都市立芸術大学音楽学部教授)、江藤俊哉(ヴァイオリニスト)、久保田良作(ヴァイオリニスト)、長谷恭男(N響事務長)、ルイ・グレーラー(ヴァイオリニスト)の諸氏からメッセージが寄せられました。

青山に工房を構えたとき以来、公私両面でタナカが相談を受け、タナカを父や兄のように思慕の情を寄せる演奏家のたゆまない温かい励ましを受けて友人、知人そして家族の愛に包まれた穏やかな晩年を送る。

・1990年
1月8日、赤坂山王病院にて死去。10日麻布光林寺にて葬儀が執り行われる。3月、父重太郎の手がけた全性寺に埋葬される。
・1996年
4月7日、東京赤坂にて7回忌の追悼コンサートがN響有志により行われる。これを契機に1996年6月と翌年7月に旧峰山町役場玄関ホールにて町主催による、N響メンバーによる弦楽四重奏コンサートが行われる。
・2005年
遺品の一部が浜松市楽器博物館に寄贈される。
・2006年
楽器を含む音楽資料の収蔵と活用を兼ねて音楽普及を目的とするNPO法人音楽のまちづくりが設立される。
・2007年
9月4日、京丹後市大宮町にて法人1周年記念コンサートが開催される。田中博の母校である峰山小学校の生徒を招いての音楽会も行なわれ、好評を博した。
・2009年
10月17日、法人事務局をタナカヴァイオリンミュージアムとして一般公開する。

※下記一覧はクリックすると詳細が見れます。

【伸びる奥丹の特殊産業】昭和29年1月16日 読売新聞から

昨秋頃からヴァイオリン、ギターなどの楽器製造に乗り出した峰山町京峰高業会社は、わが国楽器界にその名を知られている名工峯沢泰三氏が同郡吉原の郷里に隠棲したのを機にヴァイオリンの製造に乗り出し月産14,5台を出しているが、全国一流店からの注文が相次いで信じられないほどの大繁盛振りを見せている。

だが何といっても同業が少なく名工の手に成るという2拍子揃った強みは奥丹後の特殊産業としてその発展が約束されているといえる。

【奥丹に異色のヴァイオリン製作工場】昭和29年1月16日毎日新聞から

ヴァイオリン作りの峯沢氏峰山にヴァイオリンとギター教室が生まれた。…小,中高校、一般会員30名が参加し峰山小学校で始められている。

【音を作る工匠】~峯沢泰三氏の紹介~ 昭和30年2月10日 大阪新聞から

・・氏は57になるまで38年間この道一筋に打ち込んできた。その間来朝した名ヴァイオリニストの愛器を修繕して感謝されたことも多い。氏の作ったヴァイオリンが世界旅行したこともある。桑港交響楽団のコンサートマスターをしているプリンデルは昭和2年イタリアで演奏した。それを後に諏訪根自子が10年間ヨーロッパで愛用したという因縁がある。

楽聖カサルスも氏の存在を知っており、一昨年三重奏団を率いて訪れたボシュコ女史は「カサルスはミネザワのセロを見たといっていたが、私はミネザワのヴァイオリンを見た。」といって喜んだという。ミネザワをはじめ、ニッポンの手になったヴァイオリンが世界の聴衆を魅了する日もやがては来るだろう。」

・・峯沢泰三氏(54)は、神戸で叔父の経営していた楽器店で製造の技術を磨き、戦前ではハンドメードによるヴァイオリン製作では日本の三大名工の一人といわれるまでになったが戦災で郷里の峰山町に隠棲、こつこつと名器製作に余生を送っている。・・日本のヴァイオリンの世界進出のために生涯を捧げると語っているが、やがて世界の名器がこの奥丹から生まれるのも夢ではなかろう。

【取材帳から】『病床で嘆く楽器職人』 昭和53年12月 毎日新聞から

「何も知らずに楽器を購入した学生がかわいそうだ」-東京港区のビルの一室で、病床に伏す初老の弦楽器製作者、販売業者がつぶやいた。東京芸大の楽器購入をめぐる汚職事件で明るみに出た、大学教官と楽器商とのリべートで結ばれた黒い癒着を憂えてのことだった。港区南青山に住む田中博さん(58)。

戦後、都内の楽器輸入販売会社と提携してイタリア系アメリカ人、ぺルソン作の弦楽器を日本に初めて持ち込んだことでも知られるヴァイオリン製作者。京都で生まれ、地元の高専で化学を専攻、商社マンに。敗戦後、一転して楽器製作を志し、京都のヴァイオリン製作者に師事、都内で独立した。ヴァイオリン作りの腕前は確かなうえ、採算を度外視、気に入った人に気に入った楽器だけを売っていたことから、N響、日フィル関係者のほか、海外の演奏家からも注文が絶えなかった。それが53年春、千葉県銚子市で釣りをしている最中、くも膜下出血で倒れ、以来寝たり起きたりの生活に。現在は弟子が細々と後を継いでいる。

『お金に困っている人には、赤字覚悟で楽器を売ってしまう。その代わり気に入らないと札束を積まれても絶対に売らない人です』と奥さんはいう。この言葉を裏付けるように芸大のヴァイオリン担当の田中千香士助教授も『田中さんのような人ばかりだったら、今回のような事件は起きなかったはず。楽器業界がリベート商法に流れないように抑えてきた田中さんが病気になったため、業界も演奏家も乱れてしまった』と。だから生活に余裕はなく、青山道りの古びたビルの一階にある自宅と仕事場兼店舗は借り物。他業者の店がじゅうたんを敷いた豪華なのに比べ、田中さんの仕事場兼店舗は板張り。壁に掛けてあるヴァイオリンとノミ、カンナなどの工具でようやく楽器製作、販売業者とわかるほど。病の床で知った。

ヴァイオリン売買をめぐる事件。芸大教授。海野義雄(45)の汚職だけでなく、大学教官が学生の楽器を斡旋する際に多額のリベートが楽器商から支払われていることが明るみに出た。リベートは芸大教官に限らず、国公私立の多くの音楽担当教官にも慣習的に支払われていた。その額は、価格の10%前後から30%に上り、海野の場合は、54年前後の数年間で千数百万円もの“口きき料”を受け取り自宅のローン返済などに充てていた。利益優先主義の楽器商と金銭感覚に麻痺しがちな芸術家が結びついてうまれたリベート商法。

田中さんは『仲間うちのことだから』と多くを語りたがらないが、『先生は、本来ならリベートを受け取るかわりに、学生がその分を安く買えるようにすべき』と主張、楽器商に対しても“音楽という芸術を商売の垢にまみれさせた”と示唆、リベート商法という悪しき習慣を厳しく非難する。病床でヴァイオリンを抱き続ける気骨のバイオリン業者。

『供養の演奏 恩人に届け峰山町出身バイオリン制作者田中さん7回忌』
1996年(平成8年)6月29日 朝日新聞から

「峰山町出身のヴァイオリン製作者で69歳で亡くなった田中博さんの7回忌の供養にと1日夜、 NHK交響楽団の4人が同町役場のリビングホールで弦楽四重奏のコンサートを開いた。田中さんは東京・青山に工房を持っていた。演奏への批評は厳しかったが、気に入った演奏家には一番の出来栄えとなった作品を売るなど、若い演奏家の相談相手となって日本の音楽水準を陰で支えた人という。死後もその人柄を慕って峰山町の墓所を訪れる音楽家が多い。

この日の演奏会は田中さんの長女で町内に住む千穂さんが墓参する4人に頼んで実現した。N響団員のコンサートは同町で初めて。満員の約300人がドボルザークの「アメリカ」など3曲に聴き入った。2回のアンコールも含め2時間のコンサートに千穂さんは「心の琴線に触れる素晴らしい音色でした。

この上ない父の供養になりました」と感激していた。田中さんは1920年に同町で生まれた。

第2次世界大戦に従軍して負傷、帰郷して療養中に疎開してきた人から弦楽器の製作を教わったそうだ。56年から東京で制作を始め、内外の多くの演奏家が田中さんの弦楽器を求めた。・・・」

『峰山 N響団員が友情の四重奏 故田中さんを偲び町役場で』 京都新聞から

「・・・コンサートは午後7時の開演と共に約300人の聴衆が集まり、メンバーらが奏でるモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ハイドンの「ひばり」などの調べに聴き入っていた。最後はアンコールを求める拍手が会場に鳴り響いた。

田中さんはN響や海外の演奏家の弦楽器の製作や修理を手がけ、信用度は群を抜いていたという。1974年からN響顧問を務めていたが6年前69歳で亡くなった。4月7日には「7回忌の集い」が東京で開かれたこともあり田中さんの長女の千穂さんがN響メンバーに呼びかけてコンサートが実現した。」

『峰山町出身、バイオリン制作者 田中博さん追悼の調べN響の4人が演奏』 毎日新聞から

「・・・今回の演奏会は長女の千穂さんがたびたび墓参りに訪れるN響のメンバーに『父の供養を兼ねて地元でコンサートが開けないか』と相談したのがきっかけ。申し出を快諾したN響団員がコンサートツアーの途中に同町に立ち寄ることになった。

午後7時に開演。金田幸男さんと板橋健さん(ヴァイオリン)、永野雄三さん(ヴィオラ)、田沢俊一さん(チェロ)、がモーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ハイドン「ひばり」、ドボルザーク「アメリカ」などを演奏する。入場は無料。・・・

『赤星昭氏(ベルリン放送管弦楽団コントラバス奏者)みわ(ヴァイオリニスト)夫人の便りから』
1963年4月20日ベルリン

「・・今日入学試験が済み、シェパリッツにつくことに決まりました。ベルリンフィルの第一コンサートマスターです。試験の先生は20人並んでいたけれど昔のコンサートマスタ-のアントン・プレロや偉そうなのが大勢いて弾き終ったら『アンタの楽器はどこので誰の作だ?』と皆が聞き、先生の間でひっぱりだこになり『ものすごく良い楽器だ』とヒロシ・タナカのネームを皆で見て感心していました。

田中さんの楽器が認められてこんなに嬉しかったことはなかったです。今度田中さんの写真を持って先生のところに出かけていく心算です。・・」

メニューインと演奏活動をするヴィオラ奏者、安良岡ゆうさんの便りから

「12月ロンドンにてメニューインとブラームスを弾き、田中さんのお作りになったヴィオラを弾きました。『デル・ジェスの2つに混じって大変良い音がした』と皆に言われ、新聞にも良い評が出てとても嬉しいことでした。・・バルセロナでシューベルトのコンサートがあり、私は全部ヴィオラを弾きルネリ・デ・ラ・ムジカで『大変豊かで良い音だった』ととても評判で色々な人から『楽器は?』と聞かれ、『H.Tanaka』と答えるのは大変嬉しいことでした。

クリーブランドオーケストラに採用決定した留学生広江洋子さんの便りから

「とても喜んで頂くNEWSなんです。今日は!私クリーブランドのアシスタントコンサートマスターになりました。まだ信じられません。・・指揮者のロリン・マゼール氏がヨーロッパに発つ彼の最後の週に私を入れてくれたんです。・・3年経って少しずつ人とまともにしゃべれるようになりました。・・この頃しばしば田中さんのことを知っている人と出会い、『タナカさん、とっても良いひと。』と皆に言われるので大きな喜びを感じています。」

【ヴァイオリンメイカーH.TAnakaヘのインタビュー】1976年夏

無垢の木にノミを振るい、カンナをかける気迫籠る姿は、我が骨身を削り、自らの命を作品に吹き込むが如く・・。

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会員の募集

個人、法人会員を募集しております

NPO法人音楽のまちづくりでは、当団体に賛同していただき、会員になっていただける個人、法人さまを募っております。
会員さまには、催しの案内の送付サービスや入場料・CDの割り引きなどの特典をご用意しております。

フランス・シャイヨール音楽祭の
メンバーとの交流

会員区分 1口金額(年額)
賛同会員 10,000円
団体・法人 5,000円
個人 2,000円
【入会受付】
NPO法人音楽のまちづくり事務局までお気軽にお問合せください。
TEL:0772-62-5994/メールフォーム

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法人概要

法人名 NPO法人 音楽のまちづくり
所在地 〒627-0041
京都府京丹後市峰山町菅573-1
設立 平成18年9月
代表者 田中千穂
活動内容 1.音楽資料(楽器・弦楽器製作道具等)の収集、保管、展示をすること
2.音楽資料に関する専門的調査研究を行うこと
3.音楽資料に関する講演会、講習会、演奏会を開催すること
4.資料館所蔵の楽器演奏によるCD製作及び販売による啓発活動をすること
5.親と子の音楽教室や青少年の為の情操教育を目的とした演奏会を開催すること
活動時間 9:00~18:00
活動地域 但馬、丹後地方、京都、兵庫
TEL/FAX 0772-62-5994
URL http://www.ongakunomachi.com
E-mail info@ongakunomachi.com

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リンク集

国交省「半島らしい暮らし産業創生調査」事業
東京会議にて(平成20年)

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世界的な弦楽器制作者 田中博について

田中博 活動の軌跡

平成25年度京都府市町村地域自治功労者表彰受賞

国際交流事業

音楽のまちブログ

但馬・丹後/クラシックコンサート開催NPO法人 音楽のまちづくり

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